ゴルフが2020年東京オリンピックの正式種目になりました。
開催されるコースは埼玉県にある霞が関カンツリー倶楽部です。
そこで霞が関カンツリー倶楽部の詳細を、大澤啓藏さんの書かれた本の文章をそのまま紹介いたします。
“霞が関カンツリー倶楽部”
霞が関カンツリー倶楽部は1929年(昭和4年)10月に埼玉県川越市大字笠幡の地、当時の地名で「霞が関村」に建設された。
創立の経緯は、1927年(昭和2年)12月にこの地域の大地主で篤志家でもあった発智庄平翁の長年にわたる功績を讃えるため、有志によって立てられた胸像の除幕式に参加した日米生糸株式会社役員の星野正三郎が、発智翁の所有する広大な雑木林を見てゴルフ場を建設してはどうかと何となく話を持ちかけたことに始まる。
話を聞いた発智翁はすぐにゴルフ場建設の意志を固め、その建設を各方面に積極的に働きかけるとともに、よく1928年(昭和3年)には最初の9ホール用に無利息で建設資金の提供を申し出た。
星野の友人でありこの件の協力者であった藤田欽哉はこのような提案を受け、クラブ創立に向かうべく赤星四郎、石井光次郎、田中二郎、山本栄男、鹿島精一、清水楊之助など当時のゴルフ界における大物諸氏に相談し、援助を求めることにした。
こうして、1929年(昭和4年)2月には発起人総会が開かれ、クラブ名称を「霞が関カンツリー倶楽部」とすることを定め、入会金、年会費、会員数を決定して役員の選出もおこなった。
これを前後してコース用地の売買契約やコース・レイアウトの設計、倶楽部の組織作りなども同時に進められていった。
最初に造られた東コースの設計は井上信、赤星四郎、石井光次郎、藤田欽哉、鹿島精一らがそれぞれ出したプランを何ホールかずつ部分的に採用したり、いくつかのホールを責任分担してレイアウトを決定し設計した。
また日本で初めて一台のトラクターが使用されてコース造成がおこなわれた。東コースが完成して開場すると来場者は順調に増加し、ゴルファーの家族などプレーをしない人々も同伴で倶楽部は賑わいを見せた。
そうしたなか、第二コースの建設希望が高まり、1931年(昭和6年)に建設工事がスタートして、翌年(昭和7年)7月には完成、開場式をおこない、第二コースを西コースとしてスタートさせた。
この時期には、戦後、ゴルフコース設計家として活躍する井上誠一氏が霞が関の会員となっており、西コース建設の事実上の現場監督として多大な貢献をしている。
井上氏はゴルフ場建設に興味を覚え、コース建設や芝に関する専門書を読破して専門知識を深め、西コース建設に役立てたのである。
現在のコース状況は、東コースが18ホールで6979ヤード・パー72、コース・レートが73・2であり、西コースも18ホールの6887ヤード・パー73でコース・レートは72・9である。
コース全体の面積、132万㎡(約40万坪)の広大な敷地に、隣接するホールとホールのあいだにゆったりとしたスペースを取ってレイアウトされている。
東、西コースともにほぼフラットな地形に造られた36ホールの林間コースとして評判が高いばかりでなく、クラブ組織とクラブライフの充実なども含め、名実ともに名門クラブとして知られている。
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