「倉本昌弘というオリジナルの個性」でゴルフも仕事も勝負していく!」
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ツアー30勝、シニアプロとしても勝利を重ねきた倉本昌弘が、
50代最後の年に、日本プロゴルフ協会の会長をかって出たのか、
そして60歳を目の前にした一人の男が、なぜここで鍋島直要の教えを公開しているのだろうか?
やっぱり人間の基礎を教えられ、倉本という男が、鍋島という師匠に感謝しているからではないだろうか。
ここに鍋島直要の“コーチの神髄”を見る。
⛳磯辺銀次郎
(週刊ゴルフダイジェスト NO.47より)
“鍋島直要(なおもと)の教え”
勝負師でありながら、他のために生きる。
このトレードオフの命題を融合させることができたのは、倉本が“生涯の師匠”と呼ぶ故鍋島直要(なおもと)の存在が大きい。
旧佐賀藩主・鍋島家の血を引く鍋島は、日本ゴルフ協会の理事でナショナルチーム強化委員長の立場だったことから、大学時代に学生選手権4連覇を果たし、日本アマを3勝した倉本と交友を深めた。
倉本が宝箱をそっと開くように語る。
「鍋島さんと初めて回ったのが74年の日本アマ。ダイナミックなスウィングから生まれる飛距離や繊細で多彩なアプローチだけでなく、ゴルフを通しての人間的な大きさに衝撃を受け、弟子入り志願したんです」
ところが「あ、そう」というだけで相手にしてもらえなかった。
だが、そんなことで引き下がる倉本ではない。
初恋の人を口説くような執念で、渋谷区松濤の自宅に夜討朝駆けをした。朝、迎えの車に乗り込むときに「おはようございます」と声をかけ、帰れば「おかえりなさい」と労った。
「朝、挨拶するものの、“何時にお帰りですか”と聞けないから、朝方まで待っていることまあった。3カ月にやっと家に入れてもらえたんです」
当時、倉本の夢はアマチュアでマスターズに行くことだった。
鍋島は慶応大学卒業後に米国大学への留学経験があり、米国で開催されるアマチュアの大会にも数多く出場していた。
鍋島に教えを請うことがマスターズへの近道と信じていたのだ。
しかし鍋島は、倉本にゴルフの実技を教える気配はなく、一方で箸の上げ下ろしから食べ方、歩き方まで注意する。
「食べ方や歩き方が汚いひは、一流選手になれないって。しかも技術的なことは常に禅問答。考えて、考えて、考え抜き、自分で答えを見つけさせようとした。
間違った思考が生まれると一刀両断される。
どんなに素晴らしいゴルファーであっても、その人の真似をすることを許さなかった。だから、倉本昌弘というオリジナルの個性ができ上がったんです」
たとえば、82年の全英オープンに出場した倉本は日本人最高の4位タイになったものの、優勝したトム・ワトソンのスウィングに見とれてしまった。
そのスウィングに近づこうと練習していると、鍋島に「何してんの?」と聞かれた。
「説明すると、“それでどうしたの”、“飛距離が出ます”“いつ身につくの”“結果が出れば”・・・というような禅問答を繰り返していると、“そんなチビのワトソンがいるか!”と一喝。しまいには“結果だけを求めるんだったら僕の所にくる必要がない”って。
鍋島さんにはゴルフを通して、人間をトコトン鍛え上げられましたね」
鍋島からゴルフの王道を叩き込まれた倉本は、そこにデータ、数字、理論というオリジナルの味付けをし、ゴルフ界に伝授しようとしている。
倉本昌弘
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