2017年4月6日木曜日

二十歳のころ パート2 尾崎将司

(以下 サンケイスポーツより) 


今でもはっきり覚えているよ。昭和39(1964)年のセンバツ(第36回選抜高校野球大会)、オレは徳島・海南のエースで4番だった。

 大エースの3試合連続完封もあって、尾道商と決勝戦。2点リードされていて、八回にオレの大三塁打などで追いつき、九回に勝ち越しだよ。そしたらその裏、下手くそな一塁(手)の佐野木(計至=のちのエースキャディー)が内野ゴロの送球をグラブの土手で受けて落として、ランナーをためて二死満塁。2ストライク3ボールになった。そこで伝令がきてマウンドに集まった。

 新聞記事には「尾崎は飛行機を眺めていて、動揺していなかった」と書かれていたけど、単に飛行機が珍しかっただけ。四国の田舎では飛行機なんて見たことないからな。土壇場で作戦もクソもないし、オレは昔からプラス思考でね。自分の能力なら、まず打たれないという絶対的な自信があった。

 それでビュッと真ん中からインコースにシュート気味の球を投げてファーストフライ。そしたら、佐野木が今度は飛びついて取りやがった。フェアフライだから、待っていれば(ボールが)落ちてくるのにさ(笑)。

 当時の海南はどういうわけか各中学校の3、4番が集まった。ただ、甲子園を目指そうなんて感じはなかった。前の年の秋の四国大会で3位。ところが毎年2校しかセンバツに行けなかったのに、その年はなぜか3校行けたんだよ。これが最初の幸運かな。のちに、「オレはツイているな」と思うことがバンバン出てくるんだけどね。

 決して剛速球投手ではなかった。三振で打者を打ち取るよりも、27球で27アウトとって試合を終えることを目指していた。合理主義者だったな。

 「最小限の努力で最大限の効果を発揮する」がポリシー。だからシュートボールでサードゴロばかり。サードは最初から前に守っていたよ。打者が当時の高級品、ルイビル(・スラッガー社製)のバットを持っていたりすると、詰まらせてよくバットを折っていた。その様子をみてニヤッとしてね。

 ここがオレの「基本」かもしれないな。決して無駄な努力はしない。その分、考える。寝る間も惜しんでね。考えることは昔から好きだった。合理主義者の部分はプロゴルファーになってからも出た。いろいろなトレーニングを考案したり、ミニクラブなどいろんな器具を作ったりしたのもそう…。

 ゴルフでは努力したけど、中学時代から野球はあまり好きじゃなかった。もともと“省エネ精神”だから、必要最小限の練習でトレーニングをやり過ぎるようなこともない。ピッチング練習も150球投げろといわれると、100球ぐらいがキャッチボールで「監督、やりました!」。

 高校生まではそれで通用したんだよ。だけど、プロは違った。あれは衝撃的な出来事だった。 

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