2017年4月5日水曜日

二十歳のころ 尾崎将司



(以下、サンケイスポーツより)
スポーツ界に限らず、芸能界、財界など、各界のトップが自分の「二十歳のころ」を回顧しながら現在に至る“人生”を伝えます。


まずはプロ通算113勝を挙げ、70歳となった現在もプロゴルファーとして第一線で活躍する尾崎将司(セブン・ドリーマーズ・ラボラトリーズ)の登場。センバツ高校野球の優勝投手がどうやって「ジャンボ尾崎」になったのか-。
まさしく、オレの人生の分岐点になったのが二十歳のころだよ。


徳島の海南高からプロ野球の西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に入って、3年目のシーズンを終えた昭和42(1967)年の秋季練習中。ゴルフに転向するきっかけになった大事件が起きた。


投手で見切りをつけられたんだな。シーズン中に打者に転向していて、そのキャンプで中西(太)監督から「尾崎を育てろ」と言われていたのが当時コーチの仰木さん(彬氏=故人)だった。


2つのケージで打撃練習が行われていて、左翼の守備練習で仰木さんから「尾崎、来た球を捕るんだぞ」といわれていたけど、オレは片方の(ケージの)球しか追っていなくてね。やる気がないとみられたのか、仰木さんが激怒して「辞めろ!!」と怒鳴りつけられた。

 

オレは「はい、辞めます」だよ。入団1年目のオフにゴルフと出会って、もうアンダーパーで回れるくらいになっていたからね。どこかにやめたい気持ちもあった。野球をやめると決めた瞬間だった。


そのあと、12月に退団を申し出たんだけど、球団から契約違反だの何だのといわれた。結局、辞めさせてくれず、翌年(1968年)の2月に他球団に移れない「任意引退選手」になった。今、思えば仰木さんは大恩人。イチローを育てる前に「ジャンボ尾崎」をつくっていたってことだから。


野球をやめても球団の圧力はすごかった。「九州にはいられないぞ」って感じ。それまでお世話になっていたゴルフ場にもいられなくなって、関東(千葉・習志野CC)に行くことになった。こっちはためらいなんてなかったし、早くゴルフがしたかったからどこでもよかった。


野球をやめてから習志野にいくまでの1年間は、自分を大人にしてくれた時期だったね。いろいろな先輩に人生相談をして、二十歳の若造が球団と話し合いや、お世話になった人たちとかかわって、どんな人たちとも会話ができるようになった。


当時、プロゴルファーになると言ったら「飯食っていけないぞ」と何人にもくぎを刺された。確かに試合もなかった。だけど、そんなことは関係ないほどゴルフがしたくてしようがなかった。「好き」じゃないとスポーツはうまくならない。「楽しい」じゃなくて本当に「好き」だと思うことが大事なんだ。


二十歳のころは体もピンピンしていたし、伸び盛りだった。習志野(CC)での研修生生活は月給2万円で練習場の係。ボール拾いをするのが楽しみだったな。アプローチしながらボールを集めて、暇さえあればボールを打った。うまくなったね。そこで生まれて初めて、野球ではやらなかった「努力」をした。実は野球、あまり好きじゃなかったんだよ。


(><)
このような話しを聞くと、人生において何がピンチで何がチャンスなのかわからなくなります。「ピンチはチャンス!」ピンチをピンチだと思わずに明るく行動をとることが大事なんですね。あきらめたらいかん!
Ki 銀次郎

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