2014年8月4日月曜日

中部銀次郎「ゴルフの神髄」

「技術を磨くことより心の内奥に深く問い続けることが大切」

「自分の力を、甘くなく辛くなく正確に把握する。そこからすべては始まる」



“一歩退く勇気を持て”



自分のハンディキャップに対して、あまりの差のある大叩きをするのは、少なくとも私はプライドが許さなかった。
自分が
スクラッチプレーヤーだからではない。



たとえハンディが15でも、100を打つのは自身に対して許せないであろうと思う。
25であったら、絶対に110は叩きたくない。




そのために、ラウンド中、1ストロークといえども投げやりに扱わないつもりである。



それが、自分の実力に対する誠実さだと思うからだ。



ゴルフが下手でハンディキャップが多いことは恥ずかしいことではないが、ハンディからあまりにかけ離れたスコアを出してしまうのは、やはり恥だと思うべきなのだ。



身に覚えのあるゴルファー諸氏も多いと思うが、フロントナインの何番かで手痛いミスを犯す。
リカバリーを試みて、またミスを重ねる。
よくあることだ。



が、この瞬間に対する態度が、向上していくゴルファーと、
いつまでもムラのあるゴルファーを分けてしまうのである。



「まあ、最初のハーフは練習さ」などと口にする人も多い。
が、そういう気持ちが心にきざしたとき、
すでにプレーは投げやりになり、ミスは連鎖して、



終わってから
「ああ、あそこで慎重にプレーしておけばよかった」
という悔いを生むことになるばかりでなく、
出直したつもりのハーフでも同様に、ひとつのミスがまた投げやりのプレーを誘発する結果になるのだ。



結局、ゴルフというゲームは、ボールを打つ技術によって決まるものではない。
ゲームに対する執着によって、彼我の差が生じていくのである。



断っておきたいが。こういう考え方をするからといって、
わたしは特別、勝負にこだわる執念の権化(ごんげ)というわけではない。



じつは事情は反対で、私はどんな条件下でもゴルフをするときはプレーを愉しんでいるし、愉しいからこそ1ストロークもゆるがせにしないだけの、心の余裕も持てるのである。



アマチュアゴルファーにとっては、たかがゴルフではないか。
勝負を潔く諦めるゴルファーほど、初めから勝負にこだわりすぎて、
プレーを愉しむ余裕がないといってもいい。



自分のゲームに対する執着と、誰か相手との勝負にこだわるのとは、
まったく別の範疇(はんちゅう)に属するのだ。



最後につけ加えておくと、ゲームに対する執着というものの中には、
局面によっては一歩退くという勇気までが含まれる。



なぜなら、一歩退くということが結果的にハンディキャップ通りの
プレーに近づく道だからである。
一か八に賭けて散華(さんげ)するのは、勇気ではない。
無謀な行為にすぎないのである。
中部銀次郎


(><)
林に入ったボールを真横、もしくは後ろに打てるようになるまで何年かかっただろう。
むりをして打って何回木に当てただろうか?



まぐれで林を脱出したときを忘れられず、何度も木に当てた。
そしてそのミス(心の動揺)が更にミスを呼び、ミスとミスがつながって8や9を叩くことになる。



これを卒業しないうちは100の壁を切ることができないと思う。
ゴルフは“一歩退く”ことの連続なのだと心得よ!
ki銀次郎



散華(さんげ)=仏を供養するのに花をまき散らすこと。
権化(ごんげ)=仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救済するために、この世の仮の姿となって表れること。また、その仮の姿。

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