2014年11月17日月曜日

あなたに似たゴルファーたち(伊集院静)

ゴルフは絶望のくり返しであるとは、
プレーヤーなら誰もがしっている。

それでも私たちは、
次の日曜日にはバッグを担いで

近くの練習場に出かけていくのである。





“静かな午後”


朝永聡一郎は元裁判官、当時、日本の政治体制を揺るがすような造船疑獄の公判をかかえていた。



“大臣の目を睨む鬼の朝永”
“天は許さず朝永さばき”
とマスコミはその厳格な姿勢を書き立てた。



その朝永の息子が司法試験に合格したことを機に、朝永は息子をゴルフへ誘った。
朝永はスーツを着て仕事に出かけるような恰好でカントリークラブへ出かける男だった。



ゴルフをはじめて数年後、息子がジャンパーを着てゴルフ場へ行こうとしたとき、朝永はこう言った。



『ゴルフ場へ行くのにみっともない格好をするな。お前は公判の時にだらしない恰好で出てくる人間をどう評価する。たとえ公正と思っていても、人間は相手の服装に先入観を持つものだ。先入観を相手にもたれない為にそうしろと言っているのではないぞ。お前自身がいつもそういう公正な姿勢でいろと言ってるんだ』



このように躾けられた息子は、父に追いつこうと、内緒で練習場に通った。
おの日から30年が過ぎた。



息子は父と同じように裁判官になり、仕事場では孤高の立場を常にとって歩んできた。



『人間には与えられた職業というものがある。そこへ行くべくしてたどり着く職業だ。神聖なものだ。神聖ゆえに職業に尊厳を持て』
裁判官になったときに父が言った言葉だ。



或る日、息子は納得できる見事なショットをした時、いきなり父に言われた。

『なんだその笑顔は』

「いや、いいショットが打てたと思って」

『いやしい所作をするな。パーフェクトということはないんだ。世の中にパーフェクトの仕事がないように、ショットにもパーフェクトはないんだ。お前がパーフェクトでないようにな。もっとよく考えろ』

「なにをですか?」

『なぜ忙しい私とおまえが日がな一日このカントリークラブに来ているかということをだ』

父はそう言って、すたすたとフェアウェイを歩いて行った。
父はキャディーともほとんど言葉を交わさなかった。
距離もたずねなければ、グリーンの芝目もパターのラインも聞かない。



『いいか、人間にとって一番大事なのは、対象を見据える目だ。まず目が一番初めにものごとを冷静に確認する。自分の目で確認するという習慣を持たなければだめだ。判断は一番あとだ。ボールをただ打つがけなら、ゴルフなんてのは人間の己惚(うぬぼ)れた遊びだ。ティーグラウンドに立ってからそのホールを確認する人間は何をやってもいい加減になる。ティーグラウンドに近づく時におまえは空を見上げたり、どこかに先月と変わったところはないかと見るだろう。この五年間でおまえは何度このカントリークラブのコースへ出たんだ?その中で一度だって同じ状況でボールを打ったことはなかっただろう。目の前で起こっていることは何ひとつだって昨日と同じものはないんだ。それを確認する目があるかどうかだ。他人に効くようなことじゃない。』
伊集院静

(><)
この文章を読むと中部銀次郎さんのこんな言葉を思い出します。
“400ヤードも苦労して打ってきて、やっとグリーンにたどり着いたのに、なんでパットのラインをキャディに聞くのだろうか?ゴルフの一番の楽しみを他人に委ねるのだろうか?私たちはその一打に生活をかけていないアマチュア、その気持ちが私には理解できない”



メンバーさんで同じゴルフ場に何十回、何百回と来ているのに、毎回キャディにラインを聞く人をお見かけします。
私はそういう人を見ると、もったいないと思ってしまいます。



教育研修の世界では“第一印象は3秒で植え付けられる”といわれています。
仕事での初対面はもとより、気を緩めた格好をしていた時の限って旧友やご近所の人とばったり会ってしまい、“しまった~”なんて後悔した経験をお持ちではないだろうか。



ということは、場面を選ばずいつもきちんとした恰好をしていろということですね。



私は毎週義理の母と、周に1回スーパーマーケットに買い物に行っています。
以前まで夏場は、近所のスーパーマーケットだしビーチサンダルにTシャツという恰好で買い物に行っていました。



このことを知ってからは、ジャケットまでは羽織らないにしてもきちんとした恰好で買い物に行くようになりました。
“自分の恰好は自分のためだけに非ず!”
同伴者のためでもあるわけですね。



“恰好”イコール“物事への姿勢”なのだと思います。
ゴルフをはじめてこんなところも変わった私です。
ki銀次郎

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