2014年12月16日火曜日

石津謙介の男のおしゃれ実用学

~おしゃれとは着こなしである~




男のおしゃれというものは、色や型ちがしゃれているということよりも、別にどうというほどでもないものを、何となく上手に小粋に着こなす感じ、これが本当のおしゃれである。



例えばレイン・コート。
何の変哲もないベージュのレイン・コートを無雑作に着こんで衿を立てる。



ポケットに両手を突っこんで雨の中を平気な顔をしてゆっくり。
ここも大切である。
駆け出したりなんかしては、せっかくのポーズが台なしになる。



ゆうゆうと雨に頬を濡らしてゆっくり歩く。
ただこの衿の立て方にコツがある。
うしろ衿を立ててわずかに折返しをつけると、それが前のほうでは半分くらい立った感じになる。



その折る分量が大切なので、全部立ててしまったのでは、雨の中の郵便屋さんみたいでお色気がない。



スポーツ・シャツにしても同じことで、無雑作に、
そして細かい神経を使うところに、着こなしのポイントがある。



おしゃれなどというものは、たいていむずかしいことではない。
要は、世界に共通する装い方とルールさえ知っておけば、そのうえにファッションだとか、流行だとかを上手に取り入れて、そして自分の個性を盛り立てていく。それだけの話である。



いくら立派な服を着ても、いくら個性的な装いをしても、あたりかまわず大声でしゃべり立てたり、電車の中で大股を広げて腰かけたり、トイレからズボンのファスナーを締めながら出て来たり、タバコの吸いがらをところかまわず投げ捨てたり、人を押しのけて地下鉄に割りこんだり、こんなことをする人におしゃれなんか関係ない。



見知らぬ人にも親切にする。
住みよい世界をつくることを考える。
いつもそう心がけることが本当のおしゃれではないだろうか。
石津謙介

(><)
最近は、“おしゃれ”で“カッコよくて”“破天荒”な人(男らしい男)を見かけなくなった。
“おしゃれ”な男には“勇気”とか“正義感”があったような気がする。



部下をかばって上司にたてついてくれる先輩、体を張って教育してくれる先生。
みんな男としておしゃれだった。



今の時代は勇気をもって正義感を主張すると、叩かれてしまったり、邪魔をされたり、そんな風潮が、会社組織や学校教育の場に根付いているような気がする。



規則破ることのできない公務員や教師などには“破天荒”な人など現れるはずもないであろう。
学校教育はこれでいいのか?と私は不安になってしまいます。



私たちが学生のころは、体を張って、生活を犠牲にして、
人生の“これ”を教えてくれた先生があちこちにいた。
友人と話してそういう先生のことは耳にするぐらい心の熱い先生がいた。



今の学校にはそういう先生がいない、そういう先生が活躍できない土壌となっているような気がする。
そんな環境が、わがままで優柔不断な子ども(人間)を育てているような気がする。
磯辺銀次郎

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