2016年2月22日月曜日

◆1980年(第33回ライスボウル)

             (同志社大学1980年卒 H先輩)

当時ライスボウルは東西学生選抜対抗戦でした。わたしは2年生でしたが間違って選ばれ、1シリーズか2シリーズプレーさせていただきました。


各大学の4年生に混じっての2年生ということもあり、緊張していてプレーのことはほとんど覚えていない。
ここ2~3年、当時のアメリカンフットボールの仲間がフェイスブックでつながりをみせ、そんなとき同志社大学の2つ歳上の先輩のHさんからわたしにお誘いとお声を掛けていただきました。



そう1980年のライスボウルで戦ったとき、わたしの前でぶつかり合った関西代表の先輩だったのです。
今現在58歳という年齢ではありますが、わたしよりもひとまわり大きく立派な体格でした。


わたしは緊張していて記憶がないことやVTRすら持っていないので、H先輩からお声をかけていただかなければ、一生お会いすることはありませんでした。先輩ありがとうございます。


                         (#73  2年生だったわたし) 


2月2日の土曜日、新橋のSL広場で待ち合わせをして、学生時代のアメリカンフットボールの熱い話をたくさん交わしました。
H先輩からお聞きした話で一番記憶に残っている話は、現役時代に100ヤードダッシュを100往復やったとお聞きしました。
どこの大学も当時は厳しい練習をせれていたようですが、100ヤードダッシュを100往復という過酷な練習は聞いたことがありません。


今ではとても考えられないことだけど、昔の選手はとにかく走りましたね。
これほどの練習をしていたから強豪の関西学院大学にも勝つチームだったんだなと納得させられました。



         (#73 わたしの対面が同志社大学の先輩Hさん)

H先輩は、当時の雑誌をたくさん持ってきてくれました。そういう優しい気づかい、思いやり、本当に紳士なかたでした。


改めて雑誌に載っている記録を見ることができました。実力こそ差はあるにしても、わたしたちの桜美林大学は、東西の大学の中でトータルオフェンスが8位、リーディングラッシャー部門でも我チームのY君が8位という成績を残していたことに、改めてビックリしている。



わたしたちのチームの転機となったのが下の写真にある青山学院戦であった。
ランナーの#42は我チームのランニングバックY君だが、彼はオフェンスだけでなくディフェンスでもローバーというポジションについていました。


そしてわたしたちラインメンもオフェンスとディフェンス、そしてキッキングゲームをもプレーしていたので、たいして強いラインメンではなかった。そんなチームでこの成績を残したランナーのY君をわたしはチームメイトとして誇りに思っています。


           (我校の大きな転機となった青山学院戦)

今思い起こせば、厳しい指導者のもと小さいことを日々重ねたことが“努力”だったのかなと思います。
きちんと練習していたんだなぁ~

ki銀次郎

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