2015年4月24日金曜日

しない生活(小池龍之介)

つながりすぎない、イライラしない
言い訳しない、せかさない、比べない


ときどきこういう文章を読んで、
自分をみつめなおす時間も必要かも?
ki銀次郎





~優しくされた相手に攻撃心を持ち続けることはできない~




互いの仲がピリピリしかけたときに、あえて「温かいココアでもいかが?」と優しい行動に出てみると、相手以前に自分の心が和らぐ。



「優しくしてあげている」という行動と「ピリピリする」という心理は協和しませんので、脳の情報処理を混乱させます。
混乱を嫌う心は、優しくした事実は変えようがないため、感情のほうを強引に合わせようとします。



実際に和らいだ気持ちになることによって、行動と心理が協和するように書き換えてしまうのです。



「優しくしてあげた」という事実が心に印象づけられてすぐのうちは、互いにまだぎこちないかもしれません。
けれども無意識に影響を受けて少しずつ、拗ねた気持ちが強制的に消えてゆくことでしょう。




優しくされた側も、たとえ最初は「放っといてよ」と拗ねてみたところで、拗ね続けるのは難しいものです。
なぜなら「優しくされた」という事実と「敵とみなす」という心理も協和せず、脳に混乱をもたらしますから。



子どもの頃、親に対して拗ねて「いらないってばっ」と言いたくなったのは、プライドを守る煩悩ゆえでした。
「優しくされたくらいで仲直りしてしまうのは、買収されたみたいで格好悪い」よ。




ただ、どんなに頑なに、主観的には徹底抗戦するつもりでも、脳が情報を協和させたがる作用の強さには勝てず、いつの間にか心は和らぎ、「ごめんね」と言うタイミングをはかっているものです。



行動も言葉も「優しくした」とか「攻撃した」とかに応じて、まず自分の感情を変える強制力を持っている。
ならば、行動と言葉を、もっと慎重に吟味したくなるでしょう?
小池龍之介

(><)
実際に私は今、手を焼いている中学2年の娘に対して、奥歯を3枚噛みしめて、我慢しながら小池龍之介さんのこの教えを実行しています。
すると本当に娘は少しずつ心を開くようになりました。



振り返ってみると、私自身も過去には「ぶん殴ってやりたい」と思った職場の上司が何人かいましたが、恨みや憎しみを持ち続けるということはできないものです。



時間が経つにつれて、そんなことはどうでもよくなったり、次の楽しいことを考えて生きていたほうが毎日楽しいはずです。


学生時代はアメリカンフットボールをしていて、冷静さを保ったまま先にキレたほうが相手に対して優位になれると思っていたこともありました。


喜怒哀楽がはっきりしているほうが、より人間らしいとも思っていました。
最近は違います。



喜哀楽、怒抜きの人生を目指しています。
「怒る」という行動は、すべてにおいてマイナスのような気がします。

ki銀次郎

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