2015年4月22日水曜日

◆坂田の教え(週刊パーゴルフ Vol.17より)

子育ては褒めどころが肝心。
子どもの努力を褒めるべし。
人生は努力いらずと思わせてはいけない。

選考会にド派手な格好の母親と小学3年生の子どもがやってきた。
「うちの子を坂田プロのような文武両道のプロにします。東大に行かせて、東大卒のプロゴルファーにします。この子は頭もいいし、ゴルフの才能もあるんです。だから入塾させてください」


ゴルフ経験があるそうで、
「きのうもパープレーで回ったのよね」とうなずき合っている。
だがスウィングしてみろといえば、まったくできなかった。

どこでパープレーしたかのかと聞いたら、ゲームだという。
勘違い激しき世の中になってきた。


私は、子どもたちが小さいときほど、成功体験が必要だと考えている。
自転車に乗れた。
きのうより遠くまで自転車をこげた。


そういう小さな成功体験が、小さな自信、小さなやる気、小さなくじけない気持ちを育てる。


だが、何でもかんでも「よくできた」と褒めて育てるのは大間違いだ。
適当にやったこと、遊び半分でやったことを褒めれば、うぬぼれが生じる。


親が「かわいい、かわいい」と褒めて育てれば、子どもは本気で「アイドルになる」と言い出す。
今の時代は、アイドルも手の届かぬ高根の花ではなく、隣町のお姉ちゃん感覚だ。


簡単に、自分でもなれると勘違いしてしまう。
木の根元で寝っ転がっていれば、ウサギが手に入ると思っている。
スポーツ稽古事も鍛錬事も、繰り返し努力しなければ成功できない世界である。


これまで、塾出身者70人がプロテストに通り、その中の11人がシード選手となっているが、その親は子どもの褒めどころを知っていた。


「持って生まれた顔のかわいらしさより、本を読んで勉強をして、知性でつくった顔のほうがずっとすてきで美しい。だから勉強がいるのよ」
といえば、子どもは目標を持つわけだ。


ところが、「かわいい、うちの子はモデルみたい」と努力いらずの部分だけ褒めていると、ゲームしていればプロゴルファーになれると思い込むような人間になっていく。


誉め方を間違えば、そのこの人生は狂う!



その責任は親にありと思う。
坂田信弘
(><)
今の時代、学校の先生は生徒を「○○さん」と呼ぶ。
授業中に「先生トイレに行きたいのですが」と生徒が言えば、先生は行ってらっしゃいというしかないらしい。
なぜなら、生理現象をガマンさせることは体罰に等しいからだそうだ。


それを逆手にとって、生徒は全員トイレに立ち、クラスが空っぽになる学校もあるらしい。


また、教師が生徒に手を出せない(暴力をふるえない)ことも逆手にとって、「おい先生、くやしかったら俺の顔を殴ってみろよ」とけしかける生徒まで存在する。
そんな時代になってしまった。


私が小学生低学年のころ、「よしのぶちゃん事件」という誘拐事件がおきました。
もちろん世間は大騒ぎ、テレビのチャンネルはどこをみてもこのニュースをずーっと放送していたほどだった。
それくらい誘拐や殺人というのは重い罪だったわけです。


ところが最近のニュースを見ていると、毎日のように日本のどこかで殺人事件が発生しています。
しかも奇奇怪怪というか、今まで見たことのない、起きてはならない、まったく理由になっていない事件ばかり発生しています。


日本はいつからこんな風に物騒になってしまったのか、いつから個人個人が身勝手になり、悪いことは他人のせいにする世の中になってしまったのだろうか?


“向こう三軒両隣”こんな言葉こそ日本のよい伝統だったと思います。
日本は今すぐ小学校、中学校の教育体制を見直さなければならないのではないのではないか?

ki銀次郎

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