2015年6月18日木曜日

海の向こうで熱投を続けている上原浩治

今期は2勝3負13セーブ(6月17日現在)
アメリカ大リーグの名門ボストン・レッドソックスでストッパーとしてフル回転している。



巨人のエースから移籍し、2013年にはレッドソックスで世界一に。
ポストシーズンに大活躍、息子と一緒にインタビューを受けた幸せそうな姿は記憶に新しい。



高校、大学アマチュア時代には無名で“野球エリート”でなかった究極のジャパニーズ・ドリームだ。

 

◆高校時代は「補欠」投手、当時無名の大体大受験も失敗
母校の大阪体育大学野球部監督・中野和彦は教え子を「反骨心の塊のような男」と表現する。
「うちに入ってきたとき『4年後のプロを目指さないか』といったら、上原は『無理っすよ』と答えた。でも『一緒に夢見ようや』と契りを交わしたのを覚えている」



上原は、東海大付属仰星高校(大阪府枚方市)では3年まで外野手だった。
ピッチャーをするようになったのは3年途中から。
だが当時は後に日本ハム入りするエース建山義紀の控えで、打撃投手をする“補欠”だった。



しかも、将来の体育教師を志して受験した大体大受験も最初は失敗。
予備校に通い1年後に合格した。


大体大は今でこそ社会人、プロに送り込む強豪になったが、当時はプロスカウトからソッポを向かれるほどノーマークだった。
しかも、大体大野球部には専用グラウンドがなく、付属の浪商野球部が優先され、チーム全体がまとまって練習するのは昼休みの約30分間に限られた状況だ。

 


◆勝ち進むたびに貧乏に、身に染みた用具の大切さ

チームの遠征費は大半が自己負担で、勝ち進むたびに部員たちは金欠になっていく。
上原も夜中の工事現場での警備員、運送業などのアルバイトで活動費を貯めながら野球を続けた。



そんな恵まれなかったチームの1人が、後に日本球界を代表するエースにのし上がって、メジャーリーグでも有数の守護神になった上原だ。


プロから注目されるようになったのは、1997年大学3年で全日本代表メンバー入りしてからだ。
同年6月開催の日米大学野球では1試合14奪三振の大会タイ記録を達成。



さらに同年8月インターコンチネンタル杯決勝のキューバ戦に先発。
強打者のキンデラン、リナレスらをきりきり舞いさせながら、当時151連勝中で世界一だった“赤い稲妻”を斬り、勝利投手となった。



全日本代表入りした時には、ほとんどのプロ野球チームからマークされるようになったが、試合後、選手たちがスポーツメーカーから支給された手袋、アンダーシャツなどの用具を平気で「ポイ捨て」して帰る光景に驚いた。



恵まれない環境に育った上原は「こいつらには絶対に負けたくない」と闘争心をたぎらせたのだ。



現在、大学で218人の野球部員を預かる監督の中野は「今もうちの選手は折れたバットにクギを打って練習している。どれだけ野球で有名になって強くなっても、野球用具をおろそかにするやつはうまくなれない。それを大事に使うのも礼儀作法」という。


ドラフト1位で巨人入りした際、他のルーキーがプラダ、ルイ・ヴィトンといった「スーパーブランド」物のバッグを手にしていたのに、上原だけは松坂屋百貨店の紙袋で入寮した。



「ぼくは雑草ですから・・・・・」
プロ1年目から20勝4負で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最多勝率の投手4冠を獲得し、新人王、沢村賞にも輝いた。



◆今も語り継がれる大体大『上原ロード』

恩師の中野は「大学のグラウンドでは、ライと、レフトのポール間を走り続けた。あいつが走った後は草が生えなかった。『上原ロード』だ」と笑った。



メジャー6年目の今季も順風満帆ではない。
今年はスプリングトレーニング中に左太もも痛で故障者リスト(DL)入り。
そこから復活して、不惑男は投げ続ける。
その心の奥に燃えるような“雑草魂”を秘めながら。
寺尾博和(日刊スポーツ新聞社大阪本社編集委員)

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上原が大阪で住んでいた住宅は公営の団地だったと本で読んだことがあります。



その団地の建物と建物の間の狭いスペースでキャッチボールをしていたので、コントロールが良くなったと。



さすがに今現在は戸建てに住んでいるだろうが、当時、上原が巨人に入団し活躍して稼いでいても、上原の両親は生活を変えることなく団地に住み続けていた上原の両親が書いた本で読んだことがある。


ハングリーな環境は自分の責任ではない。ときに理不尽すら感じることがある。
そういう環境で育ち、スポーツをしながら自分を鍛え上げてきた人間は、強い心をもったスポーツマンに育つのではないだろうか。

ki銀次郎

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