2015年8月25日火曜日

中部銀次郎語録

◆い

・いいショットの出る確率が思いもかけないほど低いことを知れば、自分のショットに過大な制約を加えることがいかに無用かとわかってくるだろう。


・いいショットの後で、すぐミスショットが出る。素晴らしいショットが続いた後で突然、乱れる。こういう事実は、たいていのゴルファーが日常的に経験している。これを多くのゴルファーは、技術からくる問題だと考えてはいないだろうか。明らかにこれは、体に残っていたいいリズムが崩れてしまった結果に他ならない。この種のミスのほとんどは、心から生まれるものだ。


・いいショットを打つことにはかなりの自信のある人でも、試合で競ってくると途端にミスショットが出はじめるのが、心の問題以外の何物でもないことを証明している。つまり自分の持てる力を最大限に発揮するためには、心を鍛錬するしか方法はないのだ。


・いかなる局面においても、自分を支えてくれる心の余裕は、最終的には自分が積んだ練習の量から生まれてくるものである。ここ一番という場面、大きなショットよりも微妙なタッチを要する、アプローチなどの場合には、とりわけ練習量への自信が物を言う。だからこそ、練習はアプローチに時間を割かなければならないのである。


・いざというときには、深呼吸をすべきだと気づくことも難しい。仮に気づいても、深呼吸ができないのだから、仕方がないのである。


・1打をミスすると、それを取り返そうとして、2打目で無理をする。また、ミスが生ずる。もうこの段階になったら、平常心は失っているから、グリーン周りでザックリやったり、トップしたり、短いパットも安易に打って3回かかったりもする。結果的には、ショートゲームのミスのように思えても、その原因を正してみれば、ドライバーショットのミスが尾を引いていることがしばしばなのだ。


・一緒にまわる人を相手にするのではなく、パーを相手にプレーできた。ボビー・ジョーンズの『ダウン・ザ・フェアウェイ』を読むまでもなく、オールドマン・パーを知っていた。人よりもコースを相手にゴルフをしていたわけである。

・いったんスウィングを始めたら、体の動きを細部にわたって矯正することなど不可能に近い。


・いつもやってることほど狂いはないのである。


・一本のクラブのフェィスを閉じたり開いたり、いろいろな打ち方をして、結局は失敗している。これが、わたしにはよく理解できないのだ。なぜ、そのような何種類もの打ち方をしなければならないのか。必要性があるとは思えない。


・一歩を退くことが結果的にハンディキャップ通りのプレーに近づく道だから、一か八かに賭けて散華(さんげ)するのは、勇気ではない。無謀な行為にすぎないのである。


・いつでも打ちやすい場所からボールを打っていると、いざプレースが許されない場合に、心理的に打ちにくそうだなと思っただけで、もう絶対的に失敗するのがゴルフの怖いところなのである。したがって、できればそのまま打つようにするのが、たとえその1打はミスしても上達の必須条件だと考えていいと、少なくともわたしは信じている。


・いつも打ちたい距離より大きめのクラブばかりを使っていたのでは、いつまでもハンディは縮まらないであろう。消極的に4番を打たず、5番でしっかり打つべきなのである。


・意図がはっきりしていなければ、反省する余地もなく、結果がただ結果だけに終わってしまうという点では、上級者も初心者もない。意図があるから反省があり、反省することによってゴルファーは過去に学んでいけるのである。


・いま目の前にあるボールをどこへ打つべきかをよく考えて、そこへ打つことだけに専念している様子が、はた目にもよくわかるのだ。こういうプレー態度になれば、まず突然のように崩れることはないものである。


・いまや、わたしも練習する時間はない。ピュアアマチュアそのものである。だからこそ、イメージトレーニングだけは不断に欠かさないようにしているのである。



・いろいろ考える。考え込むと迷いも出てくる。迷えば決断ができない。その結果、思い切りが悪くなり、中途半端な打ち方になって失敗。こういう経過をたどることが、実に多いのである。
中部銀次郎

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