2015年8月31日月曜日

中部銀次郎「ゴルフの極意」著・杉山通敬

「コートを着たまま練習することでスウィング軸を安定させる窮屈感を知る」

「難コースも18人の美女に見立てて口説くように攻略すれば上手くいく」

「大叩きは技術ではなく心の問題」

中部銀次郎


~同伴者のプレーをよく見ることの大切さとは~

そう、ちっとも難しくない。だけど守っている人は少ない。
人がプレーしている時は動いてはいけない。音をたててもいけない。飛球線上の後方に立ってもいけない。



球捜しで5分以上経ったら後続組をパスしなければいけない。
バンカーはならして出なければいけない。
ディボットマークは直さなければいけない。



やっては“いけない”ことがいっぱいあるわけですけど、そういうことは初めから分かっているわけではない。
一緒に回る人に教えられながら覚えていく。その覚え方に問題があるんじゃないですかね。



なぜ、いけないのか。人に迷惑をかけるからである。
そのことを弁えていえば、“いけない”などと強制されなくても何はやるべきでなく、何はやるべきか、その峻別は自ずからつくであろう。



はじめに「迷惑」ありき、である。
ペシミスティック(悲観的)にいえば「オレは迷惑な存在なんだ」という認識を持たざるを得ないくらいだ。



いや、本当にそうです。わつぃがゴルフを始めたころは子供で、やっている同年代の子供はいなかった。
大人の世界にわたしひとり入る、これは迷惑な存在だったにちがいないんです。社会常識を弁えたオトナの中にガキ、ジャリがひとり、まぎれ込んできたようなものですから、当然です。



オトナの中にまぎれ込んだひとりの子供は、
見よう見真似で“やるべきではないこと”と“やるべきこと”を
学んだのである。



子供にとって、見るものすべてが生きた教材だったわけだが、
これは子供、大人の別なく、初心者に共通した「あそび方」であろう。



ゴルファーはゴルファーを見て学ぶ。先輩は見せて教える。
ウォッチングのゲームといっていいでしょうね。



初心者の頃はクラブハウスでの立ち居振る舞い、洗面所の使い方、風呂の入り方、そしてさまざまなことを含めた意味でのプレーの進め方など、何から何まで先輩がやっていることを見て学ぶ。



ということは、すべてのゴルファーはさまざまな人から“見られている”わけです。



そういう認識を持つことがエチケットのはじまりだと思います。



そして、このことがルールを守り合ううえでも基本になるんです。
別に、ルール違反をするのではないか、という疑いの目で見るのではないんですけど、見ててあげることによって“疑い”が晴れるケースがいっぱいあるわけです。



たとえばちょっとした加減でボールが動くことがある。
いや、動いたか、動かなかったか、プレーヤー本人がわからないことがある。



動いたようにも思えるし、動かなかったようにも思う。
最終的には、本人が判断するわけだが、そういう時にマーカーを含めた同伴競技者が見るべき位置でしっかり見ていれば、動いたのなら「動いた」と、その場ではっきりと指摘することが出来る。



知ってのとおり、アドレス後に動いた球(第18条2項b)は、1打付加したうえで元の位置にリプレースしなければならない。まことにやるせない思いをさせられるのだが、その場にウォッチャーがいたら“疑い”を残さないために「動かなかった球」なのに「動いた球」としてプレーをすることを未然に防ぐことにもなる。



プレー中には、予期せぬ出来事がしょっちゅう起こる。あとになってルール違反に気づいても手遅れになり、下手をするとスコアの過少申告で競技失格になる。



そういうことにならないようにお互いにウォッチングするわけです。
違反行為を監視するために“見る”のではなく、予期せぬ出来事に対して、みんなで正しい処置が出来るよう努めるために“見る”んです。
杉山通敬

(><)
ティショットやフェアウェイでのショットの場合に、同伴者のプレーを静止して見ることは当たり前だと思っている。



同伴者が、谷や林の中からトラブルショットを打つときに、わざわざ見るのは同伴者を見張っているようで気が引ける。



また同伴者が「何を見にきているんだ、見張ってなくてもチョンボしないよ」なんていう気持ちを自分に抱かれやしないか不安になる場合もある。

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